Kuuma54のブログ

残り時間との闘い

対話的存在論1

こんな歳になってようやっと気がついたことがある・人というのは対話で成り立っているそれは他人との対話関係

ではなく自分の中に対話関係が存在しているそれは微妙に自分のことを自分で言っていることではないそれは自分の中で言葉が出てくるのはまさに自分自身が会話をしているからが所以であるだからそもそも自分というのは分裂していると言うことでもなく通常のパターンとしてあるいは構造として自分の中で会話が繰り返されているということである。

 

 

 

生還

生還ならよろ

こびもあろう

しかし今はない

活かされた輸血

感謝ある

まるでひねくれん

じゃないよと

言われたようなもん

しかし一年又は半年

その先はわからない

それは

みんなも同じ

変に屈強だと

して残り一回

使った気になる

やはり死は

恐れるやうに

できている

この先

何果たす

でも

ないんたけど

一つ生きる見栄

それだけは

なくなったかな

何だ

野垂れ死に

の思想

強まったかい

生きる意味死ぬ意味

最後に添加物はいらない。宗教も生きがい論も自分史もあまりいらない。死ぬというのは生をまっとうするということだろ。動物として最後は死ぬ。今残されてる悦びは2つ。本を読む、音楽を聞く。人類の遺産の中であそこ行きたかったなは低位である。過去の人過去に死んだ人の残したものを、特段生死にこだわらず読み聴く。それだけで良い。それが与えられた人類への遺産だと思う。

 

老躯、病躯、冗躯

歳とったんならまだいいんだろ。歳相応に衰えるもの、それは動物の常性だもん。ヤマイはいかん。入り込んで来て体力落しするだけ。病気に負けるんでなく自己体力自己防衛力不足に負けて皆くたばる。病躯より老躯がいいという冗句(躯)でした。